学区の民俗史

 幟町民俗史から
(創立100周年誌から〜錦田貞雄著)



  •  幟町は、城下町の中の一つの武家の町として、毛利輝元時代すでに「町家町」であり、安芸藩の武士たちの居城でもあった。
    藩政時代は、「幟」すなわち「旗」であるから「旗町」というのが古い。
    と同時に、旗が先陣を行く政令通り、まず藩軍は、明治維新の遠征の先陣で鳥羽・伏見・会津の戦いに先陣を切っている。旗町の武士が行く、その者たちの町組が旗町の後の幟町である。
  •  瀬戸内海沿岸地帯では「のぼり」のことを「タコ」という。幟町はタコの町であった。
    武家社会では藩主または本陣の拠点の目印にタコを利用した。
    そのタコをノボリというと、すぐ祭礼を思い出すが全くその通り「タコ」即ち「のぼり」は神の依代である。
    村祭りから町の祈願にも必ず幟に始まり、幟に終わる神迎え、神送りという民間信仰の生態にこの幟町の象徴が生きている。
  • 幟町小学校で最も注目すべきことは、広島で最初の小学校教育の出発があったことである。
    明治6年1月7日安南郡石見屋町正光寺内の「由興舎」こそ、広島市最初の初等教育への開拓である。
    1月10日に本川、25日に荒神・江波・天満、2月2日に袋町・淵崎・白島、3月9日に草津と徐々に小学校が開かれていくが、それはこの幟町学区の開花から始まったのである。
    この年の2月10日にチョンマゲを切らされた町民が我が子を小学校へ送ったのである。
  • もう一つの本校は、明治23年には弘道尋常小学校として、広島最初の「幼稚園」を開いた学校である。
    現在では、幼稚園教育は寺院や専門の教育施設で行われているが、広島市の場合、幼稚教育はまず小学校の幼児教育から出発していることは見逃せない。
    その幼稚園史の始まりが、幟町小学校の前身からスタートしていることは特筆すべき校史の一頁である。

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