佐々木禎子の生い立ち
西暦 月日 年齢 主な出来事
昭和18年 (1943)  1月 7日 0歳 佐々木禎子さん生まれる。
理髪業を営む父 繁夫26歳、母 ふじ子24歳の時である。
昭和20年 (1945)  8月 6日 2歳 爆心地から約1.6kmの楠1丁目の自宅で被爆する。
昭和24年 (1949)  4月    6歳 広島市立幟町小学校に入学する。
昭和29年 (1954)  4月    11歳 6年生に進級。クラスは竹組。
竹組には62人の児童が在籍し、6年生は6組あった。担任はこの年転勤してきた野村剛先生。
 9月    投票で体育委員に選ばれる。運動会のリレー選手となる。
運動会の練習後「足がだるい。」と訴えるようになる(原爆症の初期症状と思われる)。
10月    運動会のリレーで見事に1位となる。
11月    禎子さんは風邪をひき、両リンパ腺が腫れる。
風邪が治っても両リンパ腺の腫れは引かなかった。
12月    冬休みになって身体のだるさを訴えるようになる。
両リンパ腺の腫れは硬いしこりを伴う。
昭和30年 (1955)  1月18日 12歳 ABCC(原爆障害調査委員会)で調査を受ける。
ABCCでは、原爆を受けた人に2年に1度検査をしており、禎子さんも受診している(前年の6月に受診した時には異状は認められなかった)。
 2月16日 ABCCで検査を受ける。
 2月18日 かかりつけの小児科医の畑川先生からABCCの検査結果をもとに父親に病名が告げられる。
病名「亜急性リンパ腺白血病」
「禎子さんはあと3ヶ月。長くても1年はもたんでしょう。」と医者から告げられる。
両親は、貞子さんに八丁堀の呉服屋の寿屋で桜模様の反物を買い、まだ1度も着せたことのない晴れ着を着せようとする。
 2月19日 日赤病院から「入院が21日に決まる」旨の電話がある。
三原の親戚(禎子さんの叔母)の家に反物を持って行き、夜、禎子さんの母・叔母・叔母の娘の3人で着物を縫い上げる。
 2月20日 禎子さんは学校を休み入院の支度をする。
 2月21日 広島日赤病院に入院する。
初めのうちは「本当に病気なの」と疑われるくらい快活に過ごす。
 3月16日 6年竹組最後のお別れ会に主治医の許しを得て、晴れ着を着て出席する。
幟町小学校に登校したのはこの日が最後となり、卒業式にも欠席する。
 4月    入院のまま幟町中学校に進学する。
 5月    大部屋から2人部屋に移る。同室となった大倉記代さんを「おねえちゃん」と呼び、甘える。
 5月31日 鉄砲町で営んでいた理髪店を基町に移す。
 7月 4日 病院内で顔見知りだった幸子ちゃん(5歳)が亡くなる。
 7月下旬 愛知淑徳高青少年赤十字団員が「原爆患者にさしあげてください」との手紙と共に、赤・黄・紫などのセロハンによる折り鶴4千羽を日赤広島支部に送る。
このうち2千羽が広島赤十字病院に配られた。
この時、なぜか禎子さんだけが鶴を受け取っている。
「きれいね。私たちも折ってみようか。」と同室の記代とどちらから言うこともなしに2人は鶴を折り始める。
これが鶴を折るようになったきっかけと言われている。
 8月    2人は鶴を折ることにたちまち夢中になり、病棟を走り回って包装紙を集め、はさみで5cm四方に切っては折り、ひもを通してカーテンレールにぶら下げた。
 9月    大倉さんは自宅療養となるが、その時までに折った鶴は2人とも1,000羽を超え、達成を喜びあった。
10月中旬 病状は悪化する。
体温は平熱から40度近くまでを乱高下するようになり、関節部の痛みは下肢全体に広がる。
痛みは頭部にまで及び、皮下出血を見る。
10月25日 朝、危篤となる。
父親からの呼びかけに応じてお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「あー、おいしかった。」これが最後の言葉となる。
午前9時57分、担当の沼田医師が臨終を家族に告げる。
                                  −−−闘病生活247日−−−

 
   
 
 
   
 
「お姉ちゃん」と呼んだ大倉記代さんと 一時退院の日にお父さんと

 
   
 
禎子さんのお墓の前で。ご両親とお兄さん
 
   
 
白血球が10万を超えると死ぬと知り、
禎子さんが刻々と取ったメモ


・なお、こちらのサイトにも佐々木禎子さんのお話が詳しく書かれています。 キッズ平和ステーション ヒロシマ
・原爆の子の像設立については幟町中学校「生徒活動」⇒「平和活動」
 
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